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日本のクリスマスの歴史


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最近、まとめサイトによる誤情報の拡散が問題視されています。いくつかの「まとめサイト」は非公開となり、私の運営するサイトへのアクセス数が、ここ数日で急上昇しているのですが、この隙間をついて、誤った情報を流すサイト・ブログは後を絶たないようです。

 

先ほど、クリスマスに関する情報を流すサイトを見てしまい、「信憑性の薄い内容だな…。」と思ったので、その問題の記事には、あえてリンクをしませんが、訂正した内容のカウンター記事を書きたいと思います。訂正したいことは、いくつかあるのですが、特に気になった3点を…。

 

もともとクリスマスとは、イエス・キリストの誕生を祝う日。
その時刻は12月25日と定められていて、前日の24日をご存知‷クリスマス・イヴ‴としています。

 

以下、クリスマス - Wikipediaから引用します。

 

ユダヤ暦およびそれを継承する教会暦では、日没をもって日付の変り目とする。このためこの種の暦を採用する教会では、クリスマス・イヴの日没からクリスマスを起算するため「クリスマス・イヴ」は既にクリスマスに含まれている。

 

教会歴で言えば、クリスマスとは、12月24日の日没から、12月25日の日没まで。12月25日の夜は、クリスマスにカウントされません。

 

「イヴ」(eve)」は「evening(夜、晩)」と同義の古語「even」の語末音が消失したものである。

 

イヴは、前日という意味でなく、日が落ちてから夜までという意味の「イブニング(evening)」と同じ意味。強いて言うなら、クリスマスのイブニング(日没から夜の時間帯)が『クリスマス・イヴ』です。

 

ですから、12月24日の朝や昼の時間帯は、厳密には『クリスマス・イヴ』とは言えません。ただ、一般的に、12月24日をクリスマス・イヴと呼ぶことは、もはや常態化しているので、この点は目を瞑るとしましょう。

 

しかし、以下の記述は問題です。

 

日本に「クリスマス」という概念がやってきたのは、時を遡る事1552年!

山口県にキリスト教の宣教師としてやってきたあの、みんな大好き(?)‷フランシスコ・ザビエル‴が、信徒を集めてミサ(=カトリック教会で行われる祭儀のこと)を行ったことが始まりなのだとか!

 

これは、日本にクリスマスが伝えられた年や場所は合っています。しかし、人物が違いますね。日本にクリスマスを伝えたのは、ザビエルでなく、コスメ・デ・トーレスを中心とした宣教師たちです。

 

コスメ・デ・トーレス - Wikipedia

 

 そもそもフランシスコ・ザビエルは、1552年の前年の1551年に、日本を出発していました。そして、1552年のクリスマスよりも前の12月3日に、現在の中国の広東省で亡くなっています。

 

フランシスコ・ザビエル - Wikipedia

 

 1552年のクリスマス前に、中国にて死没したザビエルが、1552年に日本でクリスマスを伝えるのは、さすがに無理でしょう。

 

次の記述も個人的には疑問です。

 

しかし、「クリスマス」が文化として本格的に取り入れられるようになったのは、実は第二次世界大戦後。
そのキッカケというのが、東京のデパートによるイベントとしてのクリスマス文化の利用です。
これにより、様々な商売において「クリスマス」が利用され、今のように一般家庭でもクリスマスが取り入れられていくのです。

 

日本におけるクリスマス文化が、戦後に広まったという記述。

 

以下は、戦中の1944年に公開された東宝映画『加藤隼戦闘隊』のワンシーンです。

 

f:id:mini-mono:20161207110544j:plain

【KSM】加藤隼戦闘隊(東宝1944年作品)パブリックドメイン 著作権消滅映画 - YouTube

 

 映画が始まって、41分過ぎの場面。1941年12月24日の陸軍の将校食堂の風景ですが、電飾されたクリスマスツリーが確認できます。

 

この当時は、アメリカやイギリスの文化を「軽佻浮薄(けいちょうふはく)」として、排斥が進んでいた時代のはずですが、それでもクリスマスの文化だけは、すでに浸透していたのかもしれません。

 

また、手前味噌ですが、姉妹ブログに書いたレジン(樹脂)とは何か? - ミニものという記事でも触れた、昭和7年(1932年)12月に発生した東京のデパート「白木屋」の大火災。

 

白木屋大火 - Wikipedia

 

 当時、白木屋は歳末大売出しとクリスマスセールが重なり、店内は華やかな飾りつけがなされていた。開店前の点検でクリスマスツリーの豆電球の故障を発見し、開店直後に男性社員が修理しようとした時、誤って電線がソケットに触れたためスパークによる火花が飛び散り、クリスマスツリーに着火。火は山積にされたセルロイド人形やおもちゃに燃え移り瞬く間に猛烈な火炎をあげた

 

 セルロイドは、火薬にも使われるニトロセルロースを原料としたプラスチックで、当時はオモチャの素材として普及していました。セルロイドは、非常に燃えやすいので、現在でも消防法にて、強く規制されています。

 

そのオモチャ売り場に電飾されていたクリスマスツリーが原因で発火・引火し、クリスマスセールも相まって、死傷者80人超の大規模な火災が起きてしまいました。

 

また、明治17年(1884年)生まれの詩人である竹久夢二は、大正15年(1926年)に、『クリスマスの贈物』という童話を発表しています。

 

竹久夢二 クリスマスの贈物

 

 「ねえ、かあさん」
「なあに、みっちゃん」
「あのね、かあさん。もうじきに、クリスマスでしょ」
「ええ、もうじきね」

(中略)

「クリスマスにはねえ。ええと、あたいなにがほしいだろう」
「まあ、みっちゃんは、クリスマスの贈物のことを考えていたの」
「ねえ、かあさん、何でしょう」
「みっちゃんのことだもの。みっちゃんが、ほしいとおもうものなら、何でも下さるでしょうよ。サンタクロスのお爺さんは」

(中略)

「ピアノよ、キュピーよ、クレヨンね、スケッチ帖ね、きりぬきに、手袋に、リボンに……ねえかあさん、お家なんかくださらないの」
「そうね、お家なんかおもいからねえ。サンタクロスのお爺さんは、お年寄りだから、とても持てないでしょうよ」

(中略)

「二郎さんとこへも、サンタクロスのお爺さんくるの」
「二郎さんのお家へも来ますよ」
「でも二郎さんとこに、煙突がないのよ」
「煙突がないとこは、天窓からはいれるでしょう」

 

なお、こどもの「みっちゃん」は6歳です。6歳の子が、クリスマスプレゼントに家をねだるというのは、なかなか面白いですね。お母さんの切り返しも素晴らしい。(ちなみに、「みっちゃん」はその後、家でなく拳銃(ピストル)をねだります…!)

 

また、6歳の子でも、サンタさんが煙突からやってくることを認識しているようです。もう1度確認しますが、これは大正時代の童話。童話ですから、こども向けの内容であることは間違いありません。

 

Wikipediaのクリスマスプレゼントの項目を見ても…。

 

大正時代になると、クリスマスプレゼントの習慣は、すっかり人々の生活の中に根をおろした。1923年(大正12年)12月3日の東京日日新聞は、「Xマス近づく」との見出しの記事において「坊ちゃん嬢ちゃんに歓迎されるクリスマス・プレゼントは、年々盛んになるばかりだ」と報じている。

 

クリスマスプレゼント - Wikipedia

 

そして、生活協同組合コープこうべのコラム「日本のクリスマス」によると…。

 

松本富士男氏のご研究によると、日本で最初にサンタクロースにふんする人物がクリスマスの祝会に登場したのは、明治7年のこと。それは、殿様スタイルであったと言われています。また、サンタクロースが日本で最初に描かれたのは明治31(1898)年のこと。

 

明治7年といえば、1874年。

 

一方、商業ディスプレイとして、日本にクリスマスツリーが登場したのは、日露戦争に突入した明治37年のこと。「明治屋」によって行われ、話題を集めたそうです。クリスマスの電飾を初めて行ったのは、「三越」百貨店であったといわれています。

 

クリスマスツリーによる装飾は、明治時代にはすでにあったようです。

 

また、慶応3年(1867年)に生誕し、明治時代に活躍した俳人、正岡子規は、「クリスマス」を季語として、以下の俳句を詠んでいます。

 

明治25年 臘八のあとにかしましくりすます

明治29年 八人の子供むつましクリスマス

明治30年 クリスマスに小き會堂のあはれなる

明治30年 子供がちにクリスマスの人集ひけり

明治31年 會堂に國旗立てたりクリスマス

明治32年 贈り物の數を盡してクリスマス

 

これらは、正岡子規の俳句検索/俳句、短歌ご愛好家の皆様へ|子規記念博物館を使って抽出しました。

 

これらを踏まえた上で、もう1度、冒頭で話したクリスマスを題材にしたブログ記事を引用します。

 

しかし、「クリスマス」が文化として本格的に取り入れられるようになったのは、実は第二次世界大戦後。
そのキッカケというのが、東京のデパートによるイベントとしてのクリスマス文化の利用です。
これにより、様々な商売において「クリスマス」が利用され、今のように一般家庭でもクリスマスが取り入れられていくのです。

 

 ざっと調べた限り、日本において、少なくとも戦前の昭和初期には、クリスマス文化は定着していたのではないでしょうか。